スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

あの時代を生きた人の生の声 の巻

最近自炊生活が続いていたので,
久しぶりに夕飯を外で食べようと屋台に行って注文をしたときです。

隣のおじさんから「日本の方ですか?」との声。
観光地のカンポットですが,なかなか日本人は珍しく,話がはずみました。
話しているうちに教えていただいたのですが,
この方(Gさん),お父さんがカンボジアの方で,お母さんが日本の方。
つまりハーフとのこと。
ご年齢が50歳くらいなので,ご両親は,ずいぶん前に国際結婚をされていたわけです。
小学校5年生くらいまでは,ずっとカンボジアに住んでいて,
当然クメール語の生活で,こっちの学校に通って…,
と一般的なカンボジアの生活を送っていらっしゃったそうですが,
時代は,まさにポル・ポト時代の直前。
銃声がやまない日はなかったそうです。

6年生のとき,ほぼ「難民」状態で日本への渡航を余儀なくされ,ご家族で訪日。
しかし,その後まもなくして,政府系で働いていたお父さんはカンボジアに帰国。
そこで,ポル・ポトの虐殺を受けて,亡くなってしまったそうです…。
その情報もなかなか入ってくることがなく,
ずっと「いつかお父さんが迎えに来てカンボジアに戻る」ことを考えていたそうです。
日本語は当然話すことができず,それでも通った日本の小学校・中学校。
明るく話してくださいましたが,悲惨だったそうです。
例えば,教室での手の上げ方1つ。こっちのことは,人差し指を一本たてて「ハイ」となります。
そういうしぐさの一つ一つが周りから笑われて,ストレス三昧だったとのこと。
そんなこんなでも(ご本人いわく)大学に通うことができて,
就職活動をし,ある企業に無事就職。
ところが国籍が「カンボジア」ということで,大学の同期生たちとは全く違う待遇。
そこで,日本に帰化することになったそうです。

32歳のとき,(ちょうど今の自分と同じ年代です)
UNTAC主導のカンボジアの総選挙が行われることになり,
民間人ボランティアとして,カンボジアに再び戻ってこられたそうです。
ポル・ポト派の恐怖を感じながら,選挙に至った道筋を語ってくださいました。
プノンペン南部のタケオ州で,レッドゾーン(超危ない地域)で事務所を構えたそうです。

ちなみに日本のお住まいは東京。
自分の実家のある埼玉県北部を通る国道17号線のバイパス工事に,
現場監督としていらしていたそうです。
お名前も同じタカシ(帰化に合わせて日本の名前を取得)。
なんだかすごく共通点があって(そんなでもないけど),お話しに相当興味をもつことができました。

3年前からプノンペンで生活されていて,
難民を助ける会にも所属されていらして,
あちこちの難民キャンプに直接行くのが趣味(?)のようになっているとのことでした。

カンポットには,たまたま1泊のご旅行でいらしたそうです。
そこらへんのおばちゃんたちと話をして,
ポル・ポト時代のことについて,話しが至ったそうです。
バナナ焼きのおばちゃんは,バッタンバンまで連行されて,
栄養失調で本当に死にかけたそうだ,と伺ったそうです。
一見平和に見えるこの街も,実はつい最近までそんな状態だったのだと改めて痛感しました。
Gさんが,UNTAC時代に恐れたポル・ポト派のメンバーも,
今もまだたくさん生き残っています。
きっと過去の大きな苦しみを背負いながら,
変化の真っただ中にある「今」を生きているのだと感じました。

Gさんは,Gさんと同じようにカンボジア人の親族を失った日本人家族の方と
連絡を取っておられて,来月もカンポットで被害にあわれたご遺族の方をご案内されるそうです。

ポル・ポト時代の虐殺。
ここまでリアルに,生の声で話を聴くことができたのは,貴重な体験でした。
お話をうかがいながら,鳥肌がたってしまいました。
連絡先を教えていただいたので,またプノンペンに上がった時にお会いしたいと思います。

後でわかったのですが…
Gさんのご家族の方については,
「カンボジアを知るための60章」の中に書いてありました…!
スポンサーサイト
コメント
コメントの投稿
管理者にだけ表示を許可する

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。